2011/12/17

南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎

すでに会期終了となりましたが、『南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎』展を最終日に駆け込みで拝見してきました。

1543年にポルトガル船が種子島に来航して以後、16世紀半ばから17世紀初頭にかけて活発化したポルトガル、そしてスペインとの南蛮貿易。鉄砲やキリスト教の伝来にとどまらず、さまざまな物資や技術、文化が到来し、日本に多大な影響を与えましたが、美術においても、西洋美術作品や画法がダイレクトに伝えられ、わずか1世紀足らずの間ですが南蛮美術が花開きます。

まず第一会場の4階は、
第1章 はるかなる西洋との出会い
第2章 聖画の到来
第3章 キリシタンと輸出漆器
の3部構成。

入口を入るとすぐ、金雲輝く見事な「南蛮屏風」が展示されていました。一見すると市街を俯瞰した狩野派の作品らしい屏風絵ですが、よく見ると町を行き交うさまざまな階級の老若男女に混じり、ちらほらと南蛮人の姿が。南蛮船や南蛮寺なども描かれ、日本に南蛮文化が到来した頃の人々の驚きや生活の変化が屏風絵から伝わってくるようです。

重要文化財「南蛮屏風」(右隻) 伝狩野山楽
桃山時代 17世紀初期  サントリー美術館蔵

「南蛮屏風」は当時の様子や風俗などが分かる貴重な作例ですが、そのほかにもキリシタンの礼拝用の聖画や聖像、また海外へと輸出されて行った日本の美術工芸品などが展示されていました。特に礼拝用の聖画や聖像などは、キリスト教の弾圧により、恐らくことごとく破壊されたでしょうから、密かに隠し持たれていたものが今に伝わっているということを考えると、非常に貴重な資料だと思います。

「花鳥蒔絵螺鈿聖龕(聖母子像)」
桃山時代 16世紀末~17世紀初期  サントリー美術館蔵

一つ階を降りて3階は、
第4章 泰西王侯騎馬図屏風の誕生と初期洋風画
第5章 キリシタン弾圧
第6章 キリシタン時代の終焉と洋風画の変容
第7章 南蛮趣味の絵画と工芸
の4部構成。

階段を降りてすぐの吹き抜けのロビーには、今回の目玉となっている二つの「泰西王侯騎馬図屏風」が展示されていました。金屏風という日本的なものに描かれた“日本的でないもの”のこの違和感。誰の手による作品なのか、またどうして制作されたのか、全くもって謎のようですが、西洋と東洋の出会いが生み出したこのユニークな屏風を見ていると、なんとも不思議であり、また面白く、南蛮美術の時代的な特異性をあらためて感じます。

傍らには「泰西王侯騎馬図屏風」の各箇所を高精細のデジタル画像で撮影し拡大したパネルが展示され、さまざまな光学調査で分析された構図や技法、顔料などの研究成果が拝見できます。

重要文化財 「泰西王侯騎馬図屏風」
桃山~江戸時代初期 17世紀初期  神戸市立博物館蔵

重要文化財 「泰西王侯騎馬図屏風」
桃山~江戸時代初期 17世紀初期  サントリー美術館蔵

こういった西洋画の画法を採り入れ、西洋の人々や風俗を描いた作品を“初期洋風画”と呼ぶそうで、同じコーナーには桃山・江戸初期の日本人の描いた西洋風俗図がほかにも展示されていました。16世紀末ともなると、ヨーロッパではバロック美術が台頭してきますが、桃山時代に日本に伝えられた画法はまだ後期ルネサンス様式の影響が色濃いようです。それでも、これが日本人の手によるものかと考えると、その完成度の高さには驚かされます。

今回の展覧会での一番の特徴は、一部の作品を除いて、誰の手による作品かほとんど分からないということ。南蛮美術の作品の多くは、イエズス会の神学校などで西洋人から西洋画の技術を直接学んだ日本人絵師によるものと推定されていますが、名前を残している人がほとんどおらず、屏風絵等の制作の経緯や、その絵師がどういう経歴を持ち、その後どうしたのか、全く謎だなのだそうです。これもキリスト教の弾圧などを恐れてのことだったのでしょうか。

重要文化財「聖フランシスコ・ザヴィエル像」
江戸時代初期 17世紀初期  神戸市立博物館

第5章と第6章は南蛮美術の“影”の部分、キリシタンの弾圧とその時代の終焉にまつわる作品が展示されていました。聖職者の処刑を描いた殉教絵や踏み絵は、作品を観るということ以上に歴史に触れるという思いを非常に強く感じます。聖者を達磨に見立てたりと、形を変えながら残ろうとする洋風画に時代の困難さを見る思いがしました。こうして日本に伝わった西洋画の技術は鎖国が解かれる江戸末期まで(秋田蘭画などごく一部を除いて)途絶えることになります。


【南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎】
2011年12月4日(日)まで
サントリー美術館にて

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