2012/03/10

中村正義展

練馬区立美術館で開催中の『中村正義展』に行ってきました。

それにしても練馬区美術館は意欲的な好企画が続きますね。しかも、これだけしっかりとした展覧会にもかかわらず、500円という破格の安さだし、公共の美術館とはいえ太っ腹だと思います。

さて、現在開催中の『中村正義展』は、昨年末に名古屋市美術館で開かれた同展覧会の巡回展になります。中村正義のここまでまとまった回顧展は約14年ぶりとのこと。何度も繰り返いしてしつこいようですが、230点以上の作品のうち練馬に来てないのは5作品だけ(たぶん)なのに、観覧料が名古屋は1100円、練馬は500円。ミューぽん使ったら400円。これは見ずにはいられないのではないでしょうか?

中村正義は1924年、愛知県豊橋市出身で、戦後まもなく中村岳陵の門下に入ります。同年、第2回日展に初入選、翌年には院展にも初入選を果たし、早くからその才能は高く評価されます。36歳のときに最年少で日展の審査員に選ばれますが、古い因習に縛られた日展の体質に嫌気がさし、翌年には日展を脱退。その後は日本画壇とは距離を置き、映画や演劇の美術製作や社会問題を作品に取り上げるなど、意欲的な活動を続けますが、1976年に肺がんのため52歳でこの世を去ります。

中村正義「夕陽」 (1949年)
豊橋市民病院蔵

この人の面白いというか、凄いところは、そうした反骨精神もそうですが、画風がコロコロと変わり、高山辰雄や中村岳陵のような日本画だったり、時にモディリアーニ風だったり、いきなり蛍光色も鮮やかなポップアートだったり、日本画とは似ても似つかないアヴァンギャルドだったり、またリアリズムに回帰したり、蕭白ぽくなったりと、日本画の概念を突き抜けて自由に変貌するその柔軟さとエネルギーなのです。

中村正義「空華」 (1951年)
豊橋市美術博物館蔵

展示は基本的に年代順になっていて、順番に観ていくと、中村正義の描く絵の変化の過程がつぶさに分かってきます。初期の作品は、中村が“速水御舟の再来”と注目を浴びたように、また中村岳陵に師事していたことからも、伝統的な日本画を踏襲していたことがよく分かります。よく言えば、手堅い、悪く言えば、おとなしい。何か大きな特徴があるわけでもなく、技巧に富んでるわけでもなく、真面目な日本画です。もしかすると、いつからか、そうした日本画への従順さに対して何か燻ぶるものがあったのかもしれません。この「空華」は、そうした燻ぶりの中で何とか自分らしさを出そうともがいてる頃の作品なんじゃないかと思います。

中村正義「舞妓(白い舞妓)」 (1958年)
荒井神社蔵

突然、その日本画への従順さがはじけるように壊れます。一見、美しい舞妓の絵のように見えますが、よく見ると目が宇宙人のように赤く不気味に光っています。本作は当時毎年発表していた“舞妓三部作”(1957-1959年)の一作で、その作風は年を追うごとに、まるで舞妓の内面を少しずつ裸にしていくかのように変化を遂げています(“舞妓三部作”の内、「舞妓(黒い舞妓)」(1959年)のみ3/11(日)までの展示です) 。この頃、肺結核が悪化し、入退院を繰り返し、中村正義の画風も内省的なものになっていったようです。この“舞妓三部作”の発表と同時期に彼は日展を脱退し、師である中村岳陵とも決別します。この頃を境に、中村の伝統的な日本画の破壊と新しい日本画への挑戦が始まるのです。中村の変容性は加速し、それまでの画風を否定するかのような色や斬新な表現を求めていきます。

中村正義「舞妓」 (1962年)
豊橋市美術博物館蔵

もうここまで来ると、日本髪と着物を着た女性らしき姿を除けば舞妓か何か分からないというか、最早日本画と呼んでいいものか考え込んでしまいます。この頃の中村は、絵具に膠の代わりにボンドを使ったり、蛍光塗料を混ぜたりと実にチャレンジングだったようです。

中村正義「源平海戦絵巻 第3図 玉楼炎上」 (1964年)
東京国立近代美術館蔵

1964年には小林正樹監督の傑作『怪談』で使用する絵を手がけています。『怪談』は小泉八雲の原作を基にした4話のオムニバス映画ですが、その中の「耳無芳一」の話で効果的に使用されました。中村の作品は全5作からなり、今は国立近代美術館の所蔵で、代表作の一つに数え上げられています。どの作品も非常に手の込んだ細密な作品で、山口晃や池田学の緻密さをどことなく彷彿とさせます。

中村正義「三島由紀夫」 (1968年)
愛知県美術館蔵

1968年にはアメリカに渡り、全盛期のポップアートに直接触れてきたようです。この人は感化されやすいのか、この作品もいかにもウォーホール的で、その影響の大きさが窺い知れます。そうした現代アートの息づかいを躊躇することなく吸収し、それを日本画の新しい血肉にしようとした貪欲さは凄いと思います。

中村正義「樹間」 (1969年)

1970年前後を境に、一時期のサイケデリックなケバケバしさは鳴りを潜め、若い頃の画風を思い起こさせるような作品を発表するようになります。この頃から仏画も制作するなど、さらに新しい境地を切り開いていったようです。

中村正義「ピエロ」 (1975年)
神奈川県立近代美術館蔵

ほぼ同世代の日本画家に加山又造がいますが、自分は3年前の加山又造展の際に中村正義の名前を知り、そのまるでポップアートのような日本画に衝撃を受けました。でもその時知った作品はごくごく一部で、こうして彼の人生の経過とともに作品を観ていくと、非常に奔放で、エネルギッシュで、破壊的で、常に日本画の可能性を追求し続けていた人なんだなと思います。加山又造、田中一村、そして中村正義と近頃昭和の日本画家の回顧、再評価が相次いでいますが、こういう人たちがいて、現代日本画に繋がっているのだなと考えると、これを見ずしてどうすると思いたくなる展覧会でした。


【日本画壇の風雲児、中村正義-新たなる全貌】
2012年4月1日(日)まで
練馬区立美術館にて

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