2015/10/18

五姓田義松展

神奈川県立歴史博物館で開催中の『没後100年 五姓田義松 -最後の天才-』を観てまいりました。

五姓田義松というと、高橋由一と同時代、日本の洋画黎明期に活躍した画家の一人と記憶し、作品も何度かお目にかかってはいましたが、由一ほどの強い印象は持っていませんでした。

年齢的にも由一より一回り下ですし、由一の後に続いた人だろうとばかり思っていたのですが、実は由一より先に洋画家として頭角を現したこと、またどこか未熟な点も残る由一の絵に比べ、完璧に洋画の技術を習得していたこと、黒田清輝よりも前にパリに留学しサロンに入賞したことなど、恥ずかしながら今回の展覧会で初めて知りました。

その五姓田義松の没後100年を記念した本展は、前後期合わせ約800点という圧倒的なボリュームの作品や資料を展示。見どころも多く、これまでの義松のイメージを覆すとても素晴らしい内容でした。


第1章 鉛筆画/水彩画

鉛筆画や水彩画は初期のものもあれば、帰国後のものもあるので、ちょっと混乱しますが、制作年の表記を見るといつの作品かは分かります。それにしてもまあ膨大なデッサンの数々。当時はまだ油彩の画材が高価で、油彩画の練習をする機会も限れら、鉛筆や水彩で描かざるを得なかったということもあるようです。東京や横浜の風景や旅先での風景、身近な人々の顔や町の風俗などが細かく丁寧に描かれていて、幕末から明治初期にかけての様子を知る上でも面白い。

五姓田義松 「台所」
神奈川県立歴史博物館蔵

今回こうしてまじまじと見てまず驚くのはデッサン力がとても優れていること。見たものを素直に克明に描いています。10歳のときに絵師でもある父の勧めで、開港まもない横浜に居留していたイギリス人画家チャールズ・ワーグマンに弟子入りしたという経緯からも、無垢な状態で西洋画の技術を習得したことが一番の要因なのでしょう。そのあたりが日本洋画の父といわれる高橋由一との大きな違いなのかもしれません。

それにしても日本人で西洋画を学んでる人なんていなかった時代に、よくここまで鉛筆画や水彩画の技術を身につけられた思います。日本画の写生とは全く違いますし、細部まで丁寧で、陰影の付け方がまた巧い。父親の先見の明や英才教育のおかげというのもあるのでしょうが、やはり本人の努力がどれだけすごかったのか。この習作デッサンの数が物語っています。


第2章 油彩画

初期の油彩画は正確に把握する造形感覚がまだ乏しいと解説されていましたが、いやいやどうして、ごく初期の「婦人像」や「自画像」などは10代でここまで描けてれば問題ないでしょというレベルです。

五姓田義松 「自画像」
明治10年(1877) 東京藝術大学蔵

『ダブル・インパクト』でも紹介されていた22歳の「自画像」は第1回内国勧業博覧会で高橋由一を押さえ最高賞を受賞。義松はこれをきっかけに皇室から仕事の依頼を受けるなど洋画界のホープとして順調なスタートを切ります。由一の絵を見ていると、こうして日本人は徐々に西洋画の技術を学んでいったのね、と少々微笑ましいぐらいに思うのですが、明治初期にいきなりこうして高い技術を持った洋画家が生まれていたとはビックリです。

五姓田義松 「西洋婦人像」
明治14年(1881) 東京藝術大学蔵

五姓田義松 「人形の着物」
明治16年(1883) 笠間日動美術館蔵

25歳のときに活動の場をパリに移し、本場ヨーロッパで学び、また自分の実力を試そうとします。ちょっとお腹まわりが男性的な気がしないでもありませんが見事に写実的な「西洋婦人像」など、ヨーロッパでさらに腕を磨いたことが分かります。

まるでヨーロッパの画家が描いたのではないかと思うような「人形の着物」。この作品で義松は日本人として初のサロン入選を果たします。しかし時代は印象派が席巻。あくまでもリアリズムにこだわった義松の挑戦は失敗に終わります。日本の風景や風俗などを描いた作品を売りながら、イギリスやアメリカなどを転々とし、失意のまま日本に帰国したようです。

五姓田義松 「土佐丸」
明治29年(1896) 日本郵船株式会社蔵 (展示は10/16まで)

不幸なことに日本に戻ると、今度は一世代下で、義松の後にパリに留学した黒田清輝が印象派を取り入れた外光派の作品で脚光を浴び、義松の画風は明治中期にあって既に時代遅れとなってしまいます。そのあたりが義松が近代洋画史から忘れ去られてしまった一因のようです。

その後の義松の活動は肖像画や風景画の制作が中心となります。それでも「大隈重信像」や「原敬肖像」など重鎮の肖像画を描いているところ見ると、高い評価は得ていたのでしょう。後期の油彩画は構図的にも優れ、色彩の面でも研鑚を重ねた結果がよく分かるのですが、日本人画家としては最初期に渡欧したぐらい志の高かった青年だったことを考えると、後年多く描いたという富士山の風景画からは一抹の寂しさを感じずにいられません。


第3章 家族/自画像

義松の作品には自画像や家族を描いた作品も多くあります。とくに家族が揃った肖像画は近世以前は少なかったといいます。一家の肖像には家族以外にも義松と同年代の弟子たちが一生懸命制作に励む姿も描かれています。

五姓田義松 「五姓田一家之図」
明治5年(1872)頃 神奈川県立歴史博物館蔵

今回の展覧会で一番衝撃的だったのは母の臨終の前日の姿を描いたという「老母図」で、そのリアリティや筆の力強さもさることながら、これを僅か20歳で描いたということに驚きます。自分の母親の命が消えて無くなろうとしているときに、ここまで真っ直ぐに向かい合い、ここまで描き切った義松の気持ちを思うと、胸に熱いものが込み上げてきます。

五姓田義松 「老母図」
明治8年(1875) 神奈川県立歴史博物館蔵

会場の最後には義松の「変顔」デッサンもあり、最後の最後まで楽しませてくれます。五姓田義松がここまで早熟とは知りませんでしたし、ここまだズバ抜けた画力を持ったいたとも知りませんでした。もしかしたら早すぎた天才なのかもしれません。この展覧会を機に五姓田義松の再評価もきっと進むことでしょう。


【没後100年 五姓田義松 -最後の天才-】
2015年11月8日(日)まで
神奈川県立歴史博物館にて


関連書籍:
絵師五姓田芳柳義松親子の夢追い物語 (幕末明治西洋画師サバイバル)絵師五姓田芳柳義松親子の夢追い物語 (幕末明治西洋画師サバイバル)

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