2015/11/14

中島清之展

横浜美術館で開催中の『中島清之-日本画の迷宮』の特別内覧会にお邪魔いたしました。

中島清之(なかじま きよし)という名前を聞いて、すぐにその作品が思い浮かぶ人はかなりの日本画ツウなのではないでしょうか。年配の日本画ファンならまだしも、若い世代にはほとんど無名かもしれません。

花の画家として知られ、現代日本画壇を代表する中島千波さんの父であると言うと分かる人も多いでしょう。落選続きで苦しんでいた片岡球子に救いの手を差し伸べたのもこの人。先日展覧会が開かれたばかりの五姓田義松の近所に住んでいて義松の壮絶な最期を目の当たりにするなど、エピソードにも事欠きません。

平成元年に90歳で亡くなってから、ここまでの規模の回顧展が開かれるのも初めてだといいます。こんなすごい日本画家がいたんだ、と驚きの連続でした。


第1章 青年期の研鑽-古典との出会い

明治32年に京都で生まれ、16歳のとき横浜の伯父を頼って単身来浜。日中は働きながら早朝に写生をしたり、松本楓湖の画塾に通っては粉本模写に励んだり、絵の先生をあちこち訪ね歩いたりしたようですが、特定の画家に師事したというわけではないようなので、その点では独学に近いのかもしれません。五姓田義松からは水彩画の手法を教えてもらったこともあるとか。

[写真右] 中島清之 「胡瓜」 大正13年(1924) 福島県立美術館蔵
[写真左] 中島清之 「蓮池」 大正15年(1926) 個人蔵

楓湖の画塾(安雅堂画塾)出身の画家には速水御舟や小茂田青樹といった面々がいて、初期の作品からはその影響も感じとれます。事実、御舟に憧れ、御舟に因んだ画号を使っていたこともあったとか。「胡瓜」にしても「蓮池」にしても、表現性というかニュアンスの出し方がとてもうまくて、この人は相当画力の高い人なのだなと感じます。 初期のスケッチブックも展示されていましたが、どれも写実的でうまい。“スケッチ魔”というニックネームがつくほどスケッチをして歩いていたといいます。

中島清之 「春日権現記絵(模写)」 大正7年(1918) おぶせミュージアム・中島千波館蔵

中島清之 「関東大震災画巻」 大正12年(1923) 横浜美術館蔵

「関東大震災画巻」は山手で被災した清之がスケッチした震災直後の横浜の光景を後に画巻にまとめたもの。東京の震災直後の様子はこれまでも幾人かの画家のスケッチなどで見たことがありますが、横浜のものとなると初めてかも。東京の被害を上回るといわれる横浜の甚大な被害の様子がつぶさに描きとめられています。

中島清之 「花に寄る猫」 昭和9年(1934) (大佛次郎旧蔵品)

「花に寄る猫」は作家・大佛次郎の飼い猫をモデルに描いた作品。装飾的に配された色とりどりの百日草や昼顔とシャムネコの取り合わせが印象的。葉の描き方も個性的です。猫がおとなしくしていますが、実はよく暴れるので“アバレ”と名付けられていたそうです。

[写真左から] 中島清之 「紅梅」 昭和4年(1929) 個人蔵
中島清之 「春日野(習作)」 昭和7年(1932)頃 個人蔵

セザンヌの表現手法に魅せられたり、また展示されていた手帖には『白樺』風の絵も描かれていて、幅広く美術に関心があったことが分かります。大正から昭和初期にかけては新興美術運動が起きていたときですから、清之の作品からもさまざまに模索している様子が窺えますが、琳派や古典に根差した作品も多く、あくまでも日本画の枠からは外れなかったのだとも感じます。


第2章 戦中から戦後へ-色彩と構図の洗練

院展にも入選し、多くの画家や文化人と知遇を得て、刺激も多かったのでしょう。さまざまな技法や画風を吸収し、そのタッチは冴え、洗練されていくのが分かります。人物を描いた作品もぐんと増えます。

「銀座」は戦前の、恐らく最後の自由な空気と賑わう街の様子が伝わってくるような作品。 いくつものスケッチを重ね、それを自由に組み合わせ、再構成しているのだそうです。「銀座A」の場所は今のアップルストアのあたりとか。細い線を中心にした描写と少し乳白色の色合いが藤田嗣治ぽい感じも。

[写真右] 中島清之 「銀座A」 昭和11年(1936) 横浜美術館蔵
[写真左] 中島清之 「銀座B」 昭和11年(1936) 横浜美術館蔵

中島清之 「≪銀座≫のためのスケッチ」 昭和11年(1936) 個人蔵

この頃の清之の線はとても細く、鉄線描を人物の輪郭線などに効果的に用いることで、美しい描線を生み出しています。藤田嗣治も鉄線描で独特の線の美を創り出していますし、同時代の前田青邨や小林古径なども鉄線描で特徴的な作品を描いてますし、時代の流行だったのでしょうか。

中島清之 「湯あみ」 昭和13年(1938)頃 横浜美術館蔵

「湯あみ」を観て思い浮かぶのは小倉遊亀の「浴女」。ちょっと俯瞰的な視線が似てますよね。奇しくも遊亀の作品と同じ年に発表されたのだそうです。清之の描く女性もどこか遊亀の女性に似てる気がします。同世代ですし、同じ院展の画家として意識するものがあったのかもしれません。

中島清之 「残照」 昭和23年(1948) 個人蔵

[写真左から] 中島清之 「雪の子(晴雪)」 昭和21年(1946) 横浜美術館蔵
「雪の子(スキー)」「雪の子(ソリ)」 昭和21年(1946) 個人蔵

女性や子どもを描いた作品にしても、戦時中の中国人を描いた作品にしても、清之の描く人物はみんな純粋な表情をしています。疎開先の小布施の子どもたちを描いた作品にほっこり。人物は写実的なのに、背景の山がモザイクのように描かれているのも面白い。

中島清之 「和春」 昭和22年(1947) 横浜美術館蔵

ちょっと気になったのが「和春」。猿の毛を表現する墨の筆触がとても興味深い。細い線を重ねて猿の毛並感を出すという方法は日本画でよく見ますが、筆で描いているのか墨を吹き付けているのか、墨のタッチがすごく絶妙です。自分が知らないだけで、こういう技法があるのかもしれませんが、どうやって描いてるんでしょう。

「方向会の夜」は戦後の代表作。敢えて僧の姿を描かないことで、堂内のピンと張りつめた空気をものの見事に表現しています。「明ける街」「暮るる里」は御舟の「京の家」「奈良の家」を彷彿とさせます。

[写真右から] 中島清之 「方向会の夜」 昭和25年(1950) 横浜美術館蔵
中島清之 「明けの街」 昭和26年(1951) 横浜美術館蔵 (展示は12/2まで)
中島清之 「暮るる里」 昭和26年(1951) 横浜美術館蔵 (展示は12/2まで)


第3章 円熟期の画業-伝統と現代の統合への、たゆみなき挑戦戦

戦後の作品は画風が急変していきます。さまざまな要素を貪欲に吸収し、カタチにしていくその造形感覚と感性が楽しい。画家の生涯の中で画風が変遷していくことは別に珍しいことではありませんが、中島清之の場合、同じ人の作品なんだろうかと思うこともしばしば。一点一点が試作というつもりで取り組んでいたという話ですが、その振幅の大きさが評価が定まらなかった理由の一つでもあったようです。

[写真左から] 中島清之 「古代より(一)」 昭和27年(1952) 個人蔵
中島清之 「古代より(二)」 昭和27年(1952) 横浜美術館蔵
中島清之 「顔」 昭和34年(1960) 東京藝術大学蔵

[写真左から] 中島清之 「梅川」 昭和34年(1959) 個人蔵
中島清之 「浄瑠璃 山城少掾」 昭和31年(1956) 国立文楽劇場蔵
中島清之 「浄瑠璃 鶴澤清六」 昭和31年(1956) 横浜美術館蔵

東博で埴輪や土器をスケッチして描いたという「古代より」や一瞬アンフォルメルかと思うような「顔」(よく見ると仏像が描かれている)など、戦後の日本画で主流となる色面に重きを置いた画面作りが目立つようになります。そうした戦後の新しい絵画や色彩への挑戦は人物画にも展開されていて、「浄瑠璃」シリーズは三人の表情に肉薄し、熱のこもった舞台の空気が伝わってくるようです。どこか片岡球子の人物画に繋がっていくものも感じます。

中島清之 「霧氷」 昭和38年(1963) 横浜美術館蔵

「霧氷」なんて、もうほとんど抽象絵画の域。真冬の大正池の枯れ木を描いたのだそうです。銀箔の上に墨で描かれていて、描法はあくまでも日本画だったりします。

[写真左] 中島清之 「喝采」 昭和48年(1973) 横浜美術館蔵
[写真右] 中島清之 「喝采(小下絵)」 昭和48年(1973)頃 おぶせミュージアム・中島千波館蔵

「喝采」を熱唱するちあきなおみのヴィジュアルを見て、ちあきなおみを愛する者としては心が動かずにはいられません。ちあきなおみの圧倒的な存在感に魅了され、テレビに映る姿をスケッチするだけでは飽き足らず、歌謡番組に足を運んでまでこの作品を完成させたといいます。となりには小下絵もあって、こちらの方がよりちあきなおみらしいのですが、絵を描いているところを覗かれたので最初から描きなおしたのだとか。当時は院展の重鎮が人気歌手を描いたと話題になり、テレビのワイドショーで本人と対面もしたりしています。

中島清之 「緑扇」 昭和50年(1975) 横浜美術館蔵

中島清之 「凍夜」 昭和51年(1976) 横浜美術館蔵

晩年は古典に回帰し、伝統と現代を融合させたような作品が増えます。「緑扇」は、金、銀、プラチナ箔を散らした上に描かれた竹の若葉がとても鮮やか。「凍夜」はいかにも琳派を継承したという作品ですが、よく見ると螺鈿が貼られていて、その細やかで工芸的な技や意匠の発想に驚きます。

中島清之 「鶴図(三溪園臨春閣襖絵)」 昭和52年(1977) 三溪園蔵 (展示は12/2まで)

最晩年の傑作である三溪園の障壁画絵も見もの。もともとあった狩野派の襖絵を保存するため、代わりとなる襖絵制作に原三溪と所縁の深い清之に白羽の矢が立ったといいます。11室分の襖絵の内、病いのため5室で断念。残りは息子の中島千波氏が引き継ぎます。「鶴図」は宗達の「鶴下絵」を受けたものですが、鶴は写実的に描かれ、表面の箔は化学的に変色処理するなど、古典的であり、とても現代的であり、その感性が素晴らしい。

「雷神」も琳派の伝統的な画題に挑戦した作品。雷神の表情や動きはユニークで、実に生き生きとし、躍動感があります。「鶴図」と同年の作なので、健康面では決して万全でなかったでしょうが、この若々しさ、力強さはなんでしょう。すごい。

中島清之 「雷神」 昭和52年(1977) 横浜美術館蔵

描きたいものを描きたいように描いてきたというだけあり、その絵はとても多彩で、どれも一様にうまい。もっと評価されてもいいと思いますし、もっと多くの人に知ってもらいたいなとも思います。「おもしろい画家」の一言で片付けてしまうのはもったいないと感じる展覧会でした。


※展示会場内の画像は特別に主催者の許可を得て撮影したものです。


【横浜発 おもしろい画家 中島清之-日本画の迷宮】
2016年1月16日(月・祝)まで
横浜美術館にて

0 件のコメント:

コメントを投稿